半券はロルバーンに貼っておく

俳優オタクで舞台オタク

スペクタクルリーディング バイオーム 感想ノート

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2022年6月9日ソワレ観劇。パンフ未読、インタビューとかもそんなに読んでない人の感想とか色々です。

配信見た友人の感想を聞いて自分が持った感想とまた違っていたので、自分の感想をざっくり書き出してみました。

花古のオタクが沼る作品だと聞いていたので、見てすぐは「花古が父親違いの姉弟とかまじでやばい」くらいの呆然タイムを過ごしていたんだけど、振り返ると、いろいろな感情や思想を織り交ぜてできた作品だったんだなと思います。

 

作品全体を通して

まず、某シーンをみながら、絶対宝塚ではできないな、と思うなど。ウエクミ先生が宝塚を退団されて初めての作品だから、というバイアスはかかっているけど、それでも結構過激に示されているので、やっぱり気になってしまうのは許してほしい。実際ウエクミ先生がどう思っていたかは定かではないけど、その辺りに何らかの意図はあったと思えてしまいました。

作品中、登場人物を俯瞰してみると「人は愚か」と思ってしまうのだけど(人は愚か、ってなる作品の個人的代名詞はマーキュリ・ファーなんだけど、またそれとは別次元で。)、個人的に印象に残っているのは「植物は感想を持たない」というセリフ。植物を媒介すると、もはや「人は愚か」とかいう感想すらない、大きな次元からみた人の営み、そしてそれを終えた人の、行く先を仮に与えた、という形だったのだと思います。

それをどう捉えるかは、本当に私たち次第、きっと受け取るタイミングや何に感情移入するかによって全く変わってくる。

個人的には怜子さんにとても感情移入してしまったが故に、ラストシーンでの救いのなさに酷く落ち込みました。(ナレ死だし・・・)親子2代にわたる復讐劇だったのだと明かされた時は、復讐は何も生まない、という、ロミジュリの刷り込みのせいですぐ表層に出ちゃう安直な感想が浮かんだりしました。正直ストーリーはまあまあよくある話かなと思ったけれど、人の営みの後ろから、植物の「ただみるだけの視線」と、ルイの「純粋な感情を持った視線」の2つで見つめられることで、まとめあげられたような、凝縮されたような印象があります。(実際、舞台手前は「見られている」、舞台奥は「見ている」構造になっていた)

 

世界観について

最初と後半で繰り返されるシーンでは、ルイは亡くなっていて、こちらとあちらの狭間、黄泉比良坂的なところにいたのだと思いました。ルイが植物たちに「喋れるようになったんだね」というとクロマツは「お前が喋れるようになったんだ」という。人間(獣)と植物という違いがなくなって生命が平等になった世界。しかしその黄泉比良坂(仮)に、まだ「生きている」はずのクロマツやセコイヤ、一重のバラもいる。そう思うと、バイオームの世界では植物はこちらに存在しつつ、あちらとこちらの間にも媒介できる、というイメージなのかな、と思います。


バイオームというのは「生物群系」のことで、ある政治家一族とその庭の生物群系のお話だったんだな、と見終わって相当経ってから気付きました。ただそこに点在するバラバラの植物や獣たちではなく、それぞれが関係しあっている生物群だったんだなと。あとは、登場人物たちが(花セラピーのママ友、ともえさん以外)ファミリー・ツリーでつながっている、というのもこのバイオームの世界の中では意味を持っていたと思います。様々な木や植物、獣たちによってできていたこのバイオームが、最後には壊されてしまう。そこに残ったのは老婆のふきと存在しないケイだけだった。言い方はあれだけど、これ以上繁殖の余地がないから、このバイオームは”自然淘汰”され、終わってしまったのでしょう。これが自然だったかどうか、という問題もあるけれど、コプト層とかカラピチ層から見ればこれも自然と言ってもいいんじゃないかと思います。そういえば造語なんですねレーテル層/コプト層/カラピチ層・・・

 

ケイの存在について


この作品を見ている間は、確かにケイの存在はふきにとっての希望に見えました。(ケイの服の色やシチュエーションから、Next to Normalかなとも思った。)ふきに残された心の拠り所。最後に映し出される大きな地球。大きな次元でふきはやり遂げたと思ったのかもしれない・・・

でも、ケイの存在が万人に対しての希望や慰めにはならないと思います。ふきにとっては希望だったかもしれないけど、もしかすると実は、怜子さんが死ぬ前にケイが彼女の前に現れていて、そのショックで怜子さんが亡くなってしまったのかもしれない。学の前に現れたことで、彼はルイのことを思い出したくないと感じてこの土地を売ったのかもしれない。ルイに関わった誰もが、ケイのことを見たかもしれない。それって本当に、希望だったのだろうか。きっとケイが悪魔に見えた人もいたはずです。

 

閑話休題~ウエクミ先生の宝塚作品の話~


見ている最中は気づかなかったのだけど、ウエクミ先生の作品で他に死生観を表していたものとしてBADDYが挙げられるなぁと思いました。最後にみんなで天国に行ってハッピー!かと思いきやバッディが「天国!?冗談じゃねえ!!!」って大暴れするラスト。全体がハッピーでポップな印象なのであんまり気にしてなかったけど、天国なんて行きたくない、と最初の曲から歌ってるんだよな・・・。

BADDYの舞台、ピースフルプラネット(長寿が当たり前の世界になっているのもポイントかも)で生きる人たちの人生の目標は「天国に行くこと」。でもバッディはそこには行きたくないのだと一貫している。死生観というと大きすぎるテーマかもしれないけれど、生きる/死ぬの概念についてウエクミ先生は考える余地を与える作品を書いていたんだなと今更ながらに思います。BADDYはいいぞ!!!(ここぞとばかりにBADDYを推すオタク)


と思うと同じくウエクミ先生作品のfffのラスト、歓喜の歌のシーンも思うところがあるな・・・あのシーンも黄泉比良坂じゃないか・・・天国にいけない音楽家たちと審判を行う天使たちも一緒に歓びの歌を歌っているなんて・・・ナポレオンとベートーヴェンの邂逅のシーンもある意味黄泉比良坂だしなぁ・・・考えると色々とあるぞ・・・

というわけでfffもいいぞ・・・あとついでにシルクロードもいいぞ・・・

 

スペクタクルリーディングの試みについて

この作品が「スペクタクルリーディング」である必要性についてもちょっと考えたのだけれど、小劇場で映像演出もなく、朗読劇ではなくストレートプレイであった場合、感じ方は確かに違っただろうなと思います。(そのバージョンも一回見てみたい気持ちはある)

朗読劇と言いつつ、だんだん前にいる人たちは本を持たなくなるので、黑世界みたいだな、、、と思ったりもしました。

朗読劇の効果って、一つは世界観を俯瞰でみれることだと思っていて、今回の場合も没入よりも俯瞰をしていることの方が多かったと思います。

痛々しい表現も、植物が読み上げる言葉によってただ見るだけの視線を味わうことができたのは、朗読劇ならではだった気がします。もし普通のストレートプレイで、植物たちが人間のしていることをナレーションしているような見せ方をしていたら、同じようには感じなかったんじゃないかと。

人間たちが本を持っている間は、何となく、「理性的な行動」という感じなのかなと思いました。本能や欲望を隠している「あるべき私」の筋書きを読むようなイメージ。

また、大きめの劇場で映像演出をふんだんに取り入れることによって、ただの俯瞰ではなく、植物目線での俯瞰をさせたように思いました。中央の木がクロマツからセコイアに移る演出は視線が変わっていく感覚に何となく風を感じました。立体音響のおかげかな・・・

ルイがセコイアの上に登っていくのと、セコイアを演じる成河さんが枝が折れる動きをしているのは、なんとも演劇的でよかったなと思います。とても好きでした。

 

以上、ざっくり感想でした。


終わったあと呆然としてしまっていたのと、単純に自分の好きな(ドチャクソ拗れた)シチュエーションの花古を見てしまった興奮であんまり考えられなかったんだけど、見てから数日後まで脳と心にべっとりと残ってる感じ、後味悪い作品(褒めてる)だなぁと、思います。最近悪夢を見たんですが、多分この作品のせいだと思ってます。なんかいまだにじりじりする。

そしてBADDYが見たくなる。私はハッピートンチキなウエクミ先生もまた見たいです。よろしくお願いします。